2018年(平成30年)北海道胆振東部地震調査報告(速報)

 2018年(平成30年)9月6日午前3時8分59.3秒、北海道胆振地方中東部を震源とするマグニチュードM6.7、震源深さ37kmの地震が発生した。

震度分布(出典:気象庁)
 

厚真町などの市町位置図
 

 筆者(坂本)は震源地の厚真町で育ち、1968年(昭和43年)十勝沖地震や浦河沖地震等も経験し、防災・減災の調査研究を長年行ってきたが、まさか故郷の町が震度7を記録する地震に遭遇するとは思ってもいなかった。
 9月6日朝4時過ぎから情報収集を始めた。6日朝のテレビ報道では、厚真町で大規模土砂崩れが発生し、行方不明者が発生したことや、全道的に大規模な停電が発生していることが報道されているが、大規模土砂崩れ現場以外の状況などはほとんど報道されていなかった。また、親族との連絡は、メールとSNSで行ったが、午前5時過ぎには無事が確認できた。
 地震発生の翌7日に、苫小牧市に居住する親族に、厚真町内の状況と厚真町やむかわ町にアクセスすることができるかどうか問い合わせたところ、幹線道路は通行できないが、迂回してアクセスできるとの情報を得たため、苫小牧市内を拠点として、現地入りをすることになった。
 
9月8日(金)午前9時30分過ぎ、新千歳空港に到着
 新千歳空港は、震度6弱を観測しており、テレビで放映された新千歳空港の地震時の揺れは、天井や壁が落下する激しい揺れだった。もし、多数の旅客が滞留している時間帯だったら、大きな人的被害が発生したに違いない。
 実際に新千歳空港ターミナルビルの状況を見ると、天井や壁、通路等に急遽応急修理した箇所が多数見られた。また、多くのトイレの使用が制限されていた。節電等の影響もあって、多くのエスカレーターやエレベーターが停止しており、通常の通路は通れず、遠回りせざるを得なかった。空港内の飲食や物販等の店舗は、全て営業を休止していた。また、航空機の運休や減便で、空港に足止めされている乗客が、発災後3日目でも多数、寝泊まりしており、ロビーに毛布を敷いて寝たり車座になる人がおり、多数の毛布が散乱していた。さらに、下水配管の被害や漏水のためか、空港全体に悪臭が充満しているのが印象的だった。

新千歳空港ロビーの状況(9月8日朝)

 
9月8日(金)午前 厚真町に向かう
 空港に迎えに来てくれた親族の者と合流し、車で厚真町に向かった。報道によると、人的被害は、厚真町の土砂崩れ現場に集中しているようだが、町役場のある市街地の被害状況は、親族の者もまったく掴めていなかった。
 生存の限界とされる72時間が迫っており、消防・警察・自衛隊の救助部隊の多くが、厚真町に派遣されていた。厚真町では、まず自衛隊の大部隊に遭遇した。報道では当初、6,000人規模での自衛隊派遣とされ、25,000人規模まで増強することが伝えられていた。確かに自衛隊員と車両が多く目につくが、陸上自衛隊の所属を見ると北海道内の部隊がほとんどであった。町のありとあらゆる駐車場や空き地は自衛隊の車両で占められ、土砂崩れ現場付近では自衛隊の野営場所も見られた。

自衛隊の車両と野営場所
 

 厚真町にアクセスする道路の被害は大きく、土砂崩れや橋梁の段差、路肩の崩壊、路面の亀裂等が多数発生していた。幹線道路は土砂崩れによる被害が大きく、この時点では通行止めとなっていた。そのため、厚真町には、“裏道”から入ることとなった。橋梁の段差は、応急措置が行われているところもあったが、路肩の崩壊や路面の亀裂は、そのままになっているところが多かった。
 厚真町の市街地に入ると、意外なことに、液状化による噴砂が所々に見られるものの、表面上はあまり大きな建物被害が見られなかった。
 市街地を回ってから、大規模土砂崩れが発生した厚真町北部に向かった。大規模土砂崩れ現場に通じる道路については、救助隊などの大型車が通れるよう、道路啓開が行われていた。そこには、山沿いに点在する建物が埋もれている多数の土砂崩れ現場が現れた。

 

厚真町の大規模土砂崩れ現場
 

 本震で崩れた土砂は、非常に速い速度で流下し、住家を押しつぶしたとされている。深夜で寝入っていた人が多かったとみられるが、緊急地震速報も震源地付近では間に合わず、土砂崩れの兆候に気づいて避難できた人はごくわずかだったと見られる。なお、厚真町北部で土砂崩れが集中したのは、火山灰が積もって出来た軟弱な地盤が影響していると思われるが、土砂崩れを発生させる特徴的な揺れがこの地域で発生したのではないかとする専門家の意見も見られる。
 
9月8日(金)午前 厚真町災害対策本部へ
 筆者は、長年、自治体の災害対策本部運営マニュアルの作成や、災害対策本部運営の図上訓練の企画・運営に携わってきている。このため、実際の災害現場で、どのように災害対策本部運営がなされ、関係機関の連携がなされているか、そこで支援できることはないかを把握することが被災地訪問の目的のひとつだった。
 厚真町役場に着くと、外部からの支援機関だけでなく、報道・マスコミ関係者が非常に多く、駐車場はこれらの車両がいっぱいで、役場庁舎内は人でごった返している状況だった。役場庁舎内には「災害対策本部」の特別な部屋やスペースはなく、1階のフロアー全体を「災害対策本部」としているようだった。1階フロアーの中心に副町長席があり、各担当は本来の席におり、そこに外部からの支援者が自由に出入りしていた。同じ1階フロアーには国土交通省や北海道等の支援機関の執務スペースが、2階には自衛隊の執務室が確保されていた。発災3日目の昼間だったので、緊急業務は一段落しているかのように見えたが、別室にはキャビネットや戸棚が転倒したり、書類が散乱したままの部屋があるなど、後片づけもままならない様子だった。
 定期的な町災害対策本部会議や調整会議は開催されておらず、町長と副町長が中心となって重要事項を決定し、個別課題は町の担当者や消防署員、支援の自衛隊・消防・警察・北海道庁等の担当者が必要に応じて集まり、調整しているということだった。印象としては、 土砂崩れからの救出活動以外は顕著な被害が多くなかったことから、初動の人命救助期においては、このような体制で対応していたようだった。ただ、厚真町では、震度7の本震後もかなり地震が頻発しており、停電と断水が長く続いたことや、家具や什器の転倒・落下の被害が大きかったことなどにより、建物の被害に比して、避難する住民が多かったようであり、被災者支援も大きな課題となっていた。
 避難所・物資関係については、役場に隣接する建物(総合ケアセンター)で対応しており、すでに受け入れられた物資が山積みされていた。支援物資の受付窓口を定めていたり、避難所への物資配送担当者を集めて昼食の配布の打ち合わせをするなど、物資の管理や避難所への配送は、スムーズになされているようだった。さらに、避難所の管理責任者を集めて連絡会議を開催するなど、避難所の運営・管理も、ある程度きちんと行われているようだった。また、避難所と同じ建物内の一室に救護所が設置され、日本赤十字社等の救護班やDMATなども活動していた。このように、厚真町については、国や道庁、外部機関からの応援が多く、初動期の応急対応については、これ以上の支援は必要ないと推察された。

町役場1階総務課:本部の統括を担当
町役場1階の副町長の執務スペース
 
町役場2階の自衛隊専用の執務室
避難所前で、炊き出し・飲料の配布
 
町役場に隣接する総合ケアセンター内の物資担当
避難者数や配布する物資の品目・数量等を掲示
レトルト食品等を暖め、1人用に小分けするなど配布準備

 
9月9日(日)午前 むかわ町に向かう
 地元の人達の話では、厚真町の土砂災害を除けば、むかわ町や安平町の被害が大きかったと聞いた。9月7日発表の消防庁の被害報告では、建物被害として、全壊は28棟しか計上されておらず、厚真町19棟、安平町4棟、むかわ町5棟と少ないが、まだ被害の全容が把握されておらず、マスコミでは報道されていない隠れた被害が発生しているようだった。引き続き、むかわ町と親族が居住する安平町に向かうことにした。
 苫小牧市内からむかわ町へは、8日当日に通行ができるようになった高速道路(日高自動車道)を利用した。橋梁の段差や路面の亀裂、路肩が崩壊した箇所を応急措置した箇所が多く見られた。
 むかわ町に入ると、市街地に限れば、確かに厚真町よりむかわ町の方が建物被害は大きく、むかわ町の鵡川地区のメイン通りを中心に建物被害が集中しているようだった。外観から見た感じでは、震度7を2回観測した熊本地震時の益城町のようなぺしゃんこな壊れ方をした家屋は少ないが、古い建物や非住家(店舗等)、空き家の被害が大きかったように思えた。
 被災から4日目で、すでに被災建築物応急危険度判定が部分的に行われており、住家に貼られた危険度判定の紙の内容をみると、赤(危険)判定が見られ、住家被害数は消防庁の被害報告の全壊数を上回ると見られた。

応急危険度判定で赤(危険)と判定された建物
 

 
9月9日(日)午前のむかわ町災害対策本部
 むかわ町の災害対策本部は、広い活動スペースを確保するため、役場に隣接する産業会館の2階の会議室に設置されていた。ロの字型に席が設置され、役割別にグループを作り、職員は担当名を書いたビブスを着用して活動していた。活動状況をみると、町長と総務課長が主導しているようであり、被害状況や対応状況の一覧が壁に貼り出されていた。なお、穂別総合支所(旧穂別町役場庁舎)にも、旧穂別町管内を担当する本部(現地対策本部)が設置されており、町の災害対策本部とはテレビ会議システムを用いて、協議を行っていた。

(注)2006年3月に、旧穂別町と旧鵡川町が合併して、現在のむかわ町が発足した。合併前の鵡川町役場を本庁舎、穂別町役場を穂別総合支所としている。

 
 報道やツイッターの情報では、この時点で、物資の一部(食器等)が不足していたため、一般個人からの少量の支援物資も受け付けていた(翌日になって、物資支援が集中し、受付事務が混乱したため、受入を中止したようである)。また、厚真町に比較すると、物資・人とも支援が少なく、自衛隊員は給水や炊き出しを行っていたが、駐車場を占拠するほどではなく、日本赤十字社については、この日(発災後4日目)の昼頃、ようやく先遣隊が入った状況だった。町役場前の駐車場にも空きスペースが見られた。一方で、避難所前の駐車場には、車中で寝泊まりしている住民が多数見られた。

むかわ町災害対策本部の状況
時系列で入手した情報や対応を記載
 
避難所前で炊き出しの準備をする人達
避難所前の駐車場には多数の車中泊の避難者

 
9月9日(日)午後、安平町へ
 むかわ町から安平町へは、厚真町を経由して移動した。通常であれば、道道10号線という幹線を利用するのだが、複数の箇所で土砂崩れが発生し、通行止めとなっていた。移動途中、「震度7」のデータを記録した厚真町鹿沼地区を通った。農家が点在する地域で、外見上は大きな被害が見られる建物は無かったが、道路の陥没や亀裂、路肩の崩壊等が、他の地域の道路被害に比べると非常に多かった。また、電柱の復旧工事をする車両や人が数多く見られたことから、電柱被害が大きかったものと思われる。
 安平町の早来地区は、古い建物に被害が比較的多いようだった。また、丘陵や盛り土・切り土をした部分で、地すべりや亀裂が多くみられ、それによって被害を受けている建物も見られた。 例えば、早来神社は小高い丘の上にあり、付近には多数の地割れが見られた。また、社殿の前方部が倒壊した。早来神社と同じ丘の斜面に建つ住宅は、地盤が移動し、壁面にずれが生じていた。被災建物応急危険度判定は、部分的に行われていた。

早来神社社殿の前方部が倒壊
早来神社付近の丘の斜面に立つ住宅:左側に地盤のずれた箇所が見られ、家の壁面に大きな亀裂が生じている
 

安平町では、石造りの建物の被害が目立った
 

 安平町では、叔母を見舞うことができた。叔母の自宅建物は、外観では大きな被害がないように見えたが、建物内に入ると増築した2階部分の柱や壁に大きな亀裂が入り、2階全体が水平にズレて傾斜しており、大規模半壊か全壊かという被害だった。
 安平町の災害対策本部は、厚真町と同じく自席対応で、本部室はなく、外部支援も少ない状況だった。役場内に、被害状況や住民へのお知らせを掲示しており、避難所・物資担当がフロアーの一角に配置され、町職員とボランティアによって運用されていた。

(注)昭和28年に安平村が分村して早来村(町)と追分村(町)に分かれたが、2006年3月に、旧早来町と旧追分町が合併し、現在の安平町が発足した。合併前の早来町役場を本庁舎、追分町役場を総合支所としている。
安平町災害対策本部の状況:役場1階に設置
災害対策本部の横に被害の状況や住民へのお知らせを掲示
 

避難所・物資担当:町職員の他にボランティアが支援

 
札幌市清田区・東区(9月10日)
 札幌市清田区里塚の被害が集中した地域は、沢に沿って開発した宅地で、地盤全体が沢の低い部分に向かって流動し、それに伴って住家が被害を受けている印象だった。当初の報道では、液状化や水道管の破裂が原因ということだったが、地下水の影響や地盤の特性等、さらに詳細な原因の調査・分析が必要なようだ。また、同じような状況が、北広島市内でも発生している。
 東区の屯田通りの大規模な道路陥没は、地下鉄の路線に沿った道路で発生しており、明らかに、地下鉄工事との関連が考えられる状況だった。また、道路陥没だけではなく、道路に沿った建物や敷地も、影響を受けていた。

札幌市清田区の住宅及び道路被害
 
札幌市東区の道路被害:陥没した箇所のアスファルトをはがして復旧作業がなされていた
 

 

 地震の発生前日の5日早朝に台風21号が北海道付近を通過しており、北海道内の多くの市町村では4日から警戒体制を取っていた。この台風では、強風による被害が多数発生しており、地震で被災した市町でも、倒木等の対応をしていたようである。このため、防災担当や現業部署では、台風による対応を取った直後に、続けて地震の対応をとることになった。このため、地震発生後の体制や活動の立ち上げはスムーズに行われたが、活動が長期に及んだために職員の疲労が増すという影響が生じたものと推測される。
 今回の地震では、最も被害が大きかった厚真町の大規模土砂崩れ現場における捜索・救助活動が急がれ、地震発生から2週間で生き埋めとなった全員の方が発見された。これは、初期段階から自衛隊をはじめとする支援部隊の集中派遣が功を奏したものと言える。しかし、マスコミなどが集中的に報道した厚真町に支援部隊や救援物資が集中してしまい、隣接する安平町やむかわ町等に、必ずしも十分な支援部隊や救援物資が送り込まれていなかった点は課題が残るだろう。また、復旧・復興対応において、9月13日に「平成30年北海道胆振東部地震による災害についての激甚災害及びこれに対し適用すべき措置の指定見込み」が発表され、9月14日には「被災者生活再建支援法」が札幌市、北広島市、厚真町に適用された。しかし、安平町とむかわ町の「被災者生活再建支援法」の適用は5日遅れの9月19日になっており、復旧・復興に関する支援体制にも差が生じ、対策実施の遅れに影響することが懸念される。
 一方、今回の地震では、大規模停電、いわゆるブラックアウトの影響が指摘されている。私が新千歳空港に到着した8日朝の時点では、多くの地域で停電は解消されていたが、ブラックアウトの影響は、様々なところで感じた。特に、被害が比較的小さかった苫小牧市内や札幌市内でも、食事の確保に非常に苦労した。発災後3~5日目でも、ブラックアウトの影響により、北海道全域で食料・食品の生産や商品の配送が回復できず、スーパーやコンビニ等の店舗では、商品が全く無くなるという状況が続いていた。飲食店も休業するところが多く、営業しているところでも、提供する品目を制限したり、営業時間を短縮する等の対応をしていた。まさに、東日本大震災直後の東京の状況が再現されていた。ブラックアウトについては、地震に限った問題ではなく、様々な状況や地域で発生する可能性がある。今回の地震におけるブラックアウトの発生過程と影響を詳細に調査・分析することにより、ブラックアウトへの具体的な対応策を改めて検討し、推進していく必要がある。
 
 近年、災害が多発している日本においては、行政や企業、ボランティアなどの外部からの支援体制が充実し、システム化されてきている。しかし、今回の地震では、北海道住民の性格からか、外部支援に頼らず、自力で解決を図ろうとする傾向があり、応援要請や支援の受け入れに対して、当初は消極的な面が見られた。今回の地震で被害が特に大きかった厚真町、安平町、むかわ町のような、人口も少なく、行政規模も小さな自治体においては、被害が大きくなると自力で対応することが非常に困難になる。このためにも外部からの支援に対して「受援体制」を組み、被災者支援や地域の生活再建・復旧復興を早期に進めていく必要があると思われる。
 

防災&情報研究所 防災・危機管理研究室長
坂本 朗一